激動の平成のドラフト会議から、令和のドラフト会議はどうなる?

昭和から始まったドラフト会議は、激動の平成を駆け抜け、令和の時代も続いていく。

激動の平成のドラフト

平成のドラフト会議はまさに激動だった。昭和53年以降は制度の変更が行われていなかったドラフト会議は平成3年(1991年)に、4位までは指名重複の場合にくじ引き、5位以降はウェーバー・逆ウェーバーを交互に行うように変わると、平成5年(1993年)には逆指名制度が導入された。

これは巨人、福岡ダイエーなど資金力のあるチームが有望選手を確実に獲得できるようにするための制度で、高校生以外の選手が球団を逆指名するもので、球団はドラフト2位までで逆指名選手を獲得することができ、しかも逆指名が1人の場合にはドラフト1位指名にも参加できるというものだった。

そして平成13年(2001年)に自由獲得枠という名称となり、自由枠で一人でも選手を獲得した場合は1位指名には参加できないようになったものの、それほど状況は変わらず、平成17年(2005年)には希望入団枠という名前に変わり、10月に高校生ドラフト、11月に大学・社会人ドラフトを行うという複雑なシステムになった。また、この年から育成ドラフト会議が行われた。

そして平成16年に明治大・一場投手へ巨人、横浜、阪神、広島のスカウトが裏金を渡していた事が発覚し、巨人の渡辺オーナーや阪神の久万オーナー、横浜のオーナーが辞任する一場事件が発生、また平成19年に西武がドラフト候補選手の裏金を渡していたことが発覚し、高校生ドラフトの3位までの指名権を剥奪されると同時に、裏金問題の温床となっていた希望入団枠が撤廃された。

そして平成20年に再び、高校生と大学・社会人のドラフトが1つに統一されている。平成の当初はドラフト候補選手も強く入団を希望していたが、パリーグの頑張りやメジャーリーグの存在もあり、国内で入団を強く希望する球団を示す例は少なくなった。しかし、2011年には東海大の菅野智之投手が巨人入りを熱望し、北海道日本ハムが1位指名の交渉権を獲得したものの入団せず浪人し、翌年に巨人が1位指名するという事もあった。

令和のドラフト

平成の激動を経て、ドラフト会議は安定期に入っている。アマチュア選手も希望球団を強く言わなくなり(高校生は希望球団を口にできない)、ドラフト1位のみ指名重複の場合は抽選、2位以降はウェーバー&逆ウェーバーという制度で定着をした。

ただし、メジャーリーグのようにドラフト制度の意義を考えると、順位の低かったチームに有力選手を獲得できるチャンスを与え、戦力が均衡する事が望ましいという事もある。しかし12球団とチーム数も多くなく、ドラフト1位である程度は同じレベルの選手を獲得できる事もあるのか、その議論も下火となっている。

また平成では育成ドラフトという制度が行われた事は評価したい。この育成ドラフトから巨人の山口鉄也投手や福岡ソフトバンクの千賀投手、甲斐選手など一流選手が登場した。育成ドラフトが無ければ埋もれていたかもしれない選手を、しっかりとプロで活躍させることができたのは素晴らしい。

日本は人口の減少が続いていく。ドラフト会議で候補となる選手にもそのレベルや数などが変わっていくかもしれない。プロとアマチュアの壁はなくなったようにも見えるがまだ残っている。令和の時代は少年野球、高校野球、大学野球、社会人野球、独立リーグ、また軟式野球や女子野球、そしてプロ野球が一体とならなければならない時代になる。

ドラフト会議はそれを結ぶ一つの点として、またその時代の野球を彩るものとして残ってほしいと思う。


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