浦和学院が優勝、チーム一丸の努力が花開く

高校野球ドラフトニュース

 高校野球センバツ大会で優勝した浦和学院、ドラフト候補として好選手は入るもののずば抜けた選手がいるチームではなかったが、チーム一丸の努力で優勝を果たした。

 甲子園常連で全国屈指の名門校といえる。森士監督が就任して21年目、これまで大竹寛投手(2001年広島ドラフト1位)や鈴木健選手(1987年西武ドラフト1位)、最近では南貴樹投手(2010年福岡ソフトバンクドラフト3位)や赤坂和幸投手(2007年中日高校生ドラフト1位)など、多くのプロ野球選手を輩出している。しかし、それらの選手がいたチームでも甲子園での優勝はできていなかった。

 2005年から2011年まで甲子園には春夏あわせて5回出場するも全て初戦敗退と苦しんだ。そして2011年から練習メニューを変えて早朝練習を増やし、またレギュラーメンバーも選手間の投票で決めるようにしたという。チーム全員に努力を認められなければ、素質を持っていても試合には出られない。

 そして昨年は佐藤拓也投手や笹川晃平選手など好投手、好選手によって春はベスト8、夏はベスト16まで勝ち進むと、2013年、ついに栄冠を勝ち取った。

 大会3本塁打を放った高田涼太選手、5試合で3完投し防御率0.64の小島和哉投手など名前の挙がる選手もいるが、決勝で安楽智大投手から一挙に7点を奪った打線の繋がりが優勝に繋がったといえる。

  エースの小島が左手を青い空に突き上げた。それが集合の合図だったかのように、グラウンドのナインが、一塁ベンチのメンバーがマウンドを目指し駆け出した。日本一幸せな高校球児18人の笑顔と笑顔が重なる。やった。勝った。春のてっぺんにたどり着いた。

 

 就任22年目の森士(おさむ)監督(48)は「夢のよう。優勝監督のインタビューを拝見してきて、まさかこの場に立てるとは…」。そう笑うと、言葉を詰まらせた。そして、これが現実か確かめるように小島から受け取ったウイニングボールで膨らんだ左のポケットに触れた。

 

 創部から35年。春夏通算20度目の甲子園で、初の決勝進出。5回だ。そこまで安楽に2安打に抑えられていたが、森監督がじれたように叫んだ。「いい投手相手に待ってたって打てない。積極的に振っていけ」。猛ゲキに応えるように、金属音がこだました。史上初の4戦連続本塁打が懸かっていた高田涼太(3年)の短く持ったバットが象徴的だった。「一発は狙ってなかった」。つなぐ姿勢を4番打者が示し、打者12人で5連打を含む8安打7得点。指揮官の言葉通り10人が2球以内にバットを振る積極策で波のように打線をつなぎ、疲れの隠せない怪物右腕の闘志を奪い取った。

 「浦学は甲子園で勝てない」――。05年春から11年春まで、出場5大会連続で初戦敗退を喫し、そんなレッテルを貼られた。変革の必要性を感じた森監督は昨年、自身の母校である東洋大駅伝部を参考に、早朝練習を取り入れた。ナインは早朝5時から1周700メートルを3分以内で走り、それを8周。その後はサーキットトレーニングやロープ登り。授業が終われば足袋を履き、腰に重さ約5キロのタイヤ、両足首には1キロの重りを付けて「乱れ打ち」と呼ばれるノックを約1時間こなした。決勝で2安打3打点の木暮は「冬は真っ暗。朝から照明をつけて。つらかった」としみじみと振り返った。

 

 大会期間中も、午前5時に起床し、ホテル周辺のゴミ拾いをした。この日も朝7時から安楽を想定した打撃練習を行ってから甲子園入り。1年間かけて心身ともに鍛えられたナインは、本気で日本一を狙う集団になっていた。決勝で大会新記録となる4戦連発が懸かっていた4番・高田は「本塁打が打てればいいとは、一切思わなかった」と、バットを短く持ち2安打で後ろにつなげた。

 

 森監督が91年に就任した当初は、カメラマン席に球を投げ込む選手、審判と体がぶつかっても謝罪さえしない選手もいたという。あれから23年。5試合で47得点、失点3という強力なチームをつくりあげた。規律と礼儀を徹底し、心を鬼にして選手を鍛え、ついに日本一をつかんだ。

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