野村監督、シダックスで3年間指導し16人の指導者育てる

社会人野球

野村監督が亡くなった。社会人野球で廃部寸前だったシダックスの監督に就任し、3年間で都市対抗準優勝1回、選手たちは現在、野球界の指導者となっている。

シダックス野球部や2002年11月に野村克也氏が監督に就任すると、翌2003年の都市対抗野球で準優勝する。野間口貴彦投手、武田勝投手にキューバのキンデラン選手、パチェコ選手などを擁し、狙った都市対抗優勝だったが、決勝の三菱ふそう川崎戦では6回まで野間口投手が無失点の好投で3-0でリードするも、7回に5失点し逆転負けをした。このことについて野村監督は「野球人生で一番悔いが残る試合」と話していた。

その年のドラフト会議で庄田隆弘選手が阪神のドラフト6位で指名されると、翌年には野間口投手は巨人の自由枠で入団し、2005年には武田勝投手がドラフト4位で北海道日本ハムに、小山桂司捕手がドラフト5位で同じく日本ハムに指名された。

2005年10月に東北楽天の監督の打診を受けると野村監督は、シダックスの会長・志太氏に「アマ野球は楽しい。シダックスの監督を続けたいが最後は志太さんが決めてくれ」と話した。志太会長は「野村監督はプロで輝ける人、どうぞ行ってらっしゃい」と送り出すと、送別会で野村監督は号泣していたという。

2006年に森福允彦投手がドラフト4位で福岡ソフトバンクに、中村真人選手が育成ドラフト2位で東北楽天に指名され、シダックス野球部はその年の秋に廃部となった。14年間で社会人野球初の海外キャンプ、キューバ選手の大量加入など大きなチャレンジをしたチームだった。

指導者に

シダックスで捕手として野村監督の指導を受けた坂田精二郎氏は、セガサミーに移った後、2011年に立正大のコーチ、そして2013年に監督に就任、2018年には明治神宮大会で全国制覇をした。

坂田監督は「本当に惜しい人を亡くした。準備がどれだけ大事かということを一番教えていただいた。今後使命感を持ってやっていきたい」と悼んだ。

2018年のセンバツ、夏の甲子園に出場した千葉の中央学院高校の相馬監督もシダックス時代の教え子の一人で、「残念です。僕自身は全然活躍できなかったけれど、野村監督のおかげでここまで来れた。本当に感謝しかありません。雲の上の人が廃部寸前の野球部に来て、すごいカルチャーショックを受けたのをよく覚えています。OBみんなで教えをつないでいきたい」と話した。

埼玉の昌平高校の黒坂監督もシダックス時代の教え子で、高校野球の監督に就任する際には「うらやましいな。おれが一番やりたい職業だよ、って言われて」と話す。「本当にかなりの影響を受けたし、ノムさんに教わらなかったら指導者になっていないと思う。野球観も人生観も変えてくれた人だった」と話した。

プロ野球でも東京ヤクルトの高津監督、東北楽天の三木監督など、多くの指導者となる選手を教えているが、シダックスでも3年という短い間に、北海道日本ハムの武田勝コーチなど16人の教え子が指導者となっている。キューバの監督をつとめたパチェコ氏も「野村の野球を日本で吸収した」と話しているという。

野村野球は、日本・世界でこれからも続いていく。

野村氏がシダックス監督を務めていた時代の教え子も、突然の訃報にショックを受けた。日本ハム・武田投手コーチら16人が指導者となっている。

シダックス時代の教え子でもある埼玉・昌平高の黒坂洋介監督(44)は「残念です」と絶句した。

シダックス・志太勤最高顧問「05年のオフ、楽天からオファーがあった時も『アマ野球は楽しい。シダックスの監督を続けたいが最後は志太さんが決めてくれ』と。私は『野村さんはプロの人。どうぞ行ってらっしゃい』と送り出した。送別会で号泣され、こんなに情の深い方なんだ、とますます好きになった」

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